その頃の斯界の動きを羅列すると:日本美容医療協会、日本美容外科医師会、日本美容外科学会JSAS、日本美容外科学会JSAPS等で私達は多方面に渉って活動しはじめます。コウモリというか、あくまでも二股です。四股ではありません。その点から説明していきます。
時代は平成9年=西暦1997年で私は11年次です。実は年代をよく覚えていません。
私が日本美容外科学会JSPSに加入したのは形成外科入局時、つまり昭和62年=1987年です。通常北里大学形成外科入局時には、日本形成外科学会には入会しますが、日本美容外科学会JSAPSには入りませんが、私は出自からして特殊なのですぐに入れました。教授陣の推薦が必要なのですが、特別に配慮されてサインをもらいました。父は昭和53年の立ち上げ時から入会して発足会員として専門医の称号を持っていました。逆に言えば父に推薦してもらえばいいのですが、それでは医局のメンツが立たないという事でもあります。
日本美容医療協会の発足は1993年ですから平成5年で私は7年次ですが、もちろん発足時から父子で入会しています。父が理事選に出たのは4年後です。この二つに参画するのはカップリングされています。当時は日本美容外科学会JSAPSに入会する際に、日本美容医療協会に入会するように義務付けられていました。その後理事になる父の下で、委員会の調査に加わります。
JSASに父は発足直後(発足年次は多説あるが、昭和53年より前)から加入しています。そして1997年と2001年に会長となり年一回の学会を主催します。私はその頃引きずり込まれました。当時の美容外科の世界では、JSAPSグループとJSASグループの対立が激しく、二つの学会に加入すると波紋を呼び、破門された者もいたようですが、父がJSASを主催するので、黙認されたのです。当時二つの学会に加入していたのは、他には数名だけだったと思います。もちろん父もですが、仲のいい木村先生もです。そういえば、彼とは腐れ縁です。私が3年次に学会で発表した際に彼の方から寄って来て、7年次に茅ヶ崎で一緒で、JSAPSでもよく話し合っていました。JSASでも常に情報交換する様になります。
日本美容外科医師会は、日本美容医療協会に対抗してJSAS側、つまり非形成外科医側が発足させました。実は当初から二股の医師も多く居ました。建前上協会は患者の為の公益法人で、医師会はあくまでも医師の寄り合いだから、方針が違うからいいだろうという言い分です。当初はそれこそ二股の稲葉先生が音頭を取りました。彼は腋臭症と毛髪治療のベテランで、両方の美容外科学会で重鎮でした。特殊な道具でガリガリ削る手術法を開発し、その道具を稲葉式としてJSAS側に売っていましたから、顔が利いたのです。父は次代の理事長になります。その後の件は今後述べます。
こうして学会が二つ。協会と医師会が発足しましたが、カップリングされています。ですから二股で父と私は歩んでいくのです。今でこそ二股の医師は沢山います。敢えて言えば、JSAPS側の形成外科出身の医師で、JSAPSでの立場が弱い若い医師達や、何となくアウトサイダー化した医師がJSAS側に続々加入しています。食い扶持探しでもあり、喰いものにしようとの目論みも見られます。逆に少しでも使える医師を探そうと、(金に釣られて他科から転向する輩よりは)SMBCなんかも形成外科出身の医師を釣っていますから、自然と交流が進んでいるのでしょう。
今や、形成外科出身の医師で美容外科に進出する者がひっきりなしです。しかし敢えて私は駄目出したいと思います。形成外科も美容外科も、共に形態を改善する医療ですが、形成外科診療はマイナスをゼロに戻す医療です。美容外科診療はゼロをプラスにする医療です。スタートが違います。形成外科診療に於いては、マイナスの要素が様々ですが、ゴールは見えますから、医師側の行為の選択がそのまま通ります。美容外科診療に於いては、プラスの方向は人によって様々でゴールも人によって違います。ですから、患者さんの人格全体をよく吟味しなければなりません。それなのに、形成外科医は治療法を押し付けます。結果として、患者さんは満足度を下げる事が多いのです。何か物足りなかったり、喜びが共有されないのです。父がよく言いました。「美容整形は楽しいんだ!」その為には、患者さんと向き合う気持ちが必要です。最近は、形成外科医の中でも患者と向き合う美容外科医になる者が少なからず出て来ていますが、まだまだです。逆に非形成外科医でビジネスライクなチェーン店系美容外科医は、売り上げ優先で`いらん`治療を押し売りしたりします。これをトッピング治療と言います。どっちもどっちで、目くそ鼻くそを笑うみたいですが、やはり形成外科と美容外科、そして美容整形屋は違う種族です。私は同時に三つを経験して来ました。今後その様な医師が増えてくる者と期待しています。
ところで、JSAPSでの私は、その頃から学会発表をします。学会で積極的に発言もします。アカデミックな美容外科医療に染まっていきます。学会で形成外科出身の美容外科医や先に述べたコムロ仲間と交流するのは有意義でした。その点はこれから説明します。その後、JSASでは2001年;平成13年に父が主催する際に講演を任されました。15年次ですから、大和徳洲会形成外科・美容外科部長の年、まだまだ先です。
ブログは時系列に戻ります。平成9年(1997年)の茅ヶ崎徳洲会は一年で辞しますが、送別会で院長に泣かれました。翌年は銀座美容外科医院に北里大学形成外科・美容外科医局から常勤で出向します。この年のトピックとして、研究を再開します。JSAPSでの発表もします。何より、常勤で美容外科診療をする際には、経営も頭に入れなくてはなりません。そのときでしたか、北里のUc教授が声を掛けてくれて、翌年大学に戻ります。その辺りの経緯からその後への方針が見えて来ます。次回平成10年(1998年)12年次から再開します。